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2025.03.21

歴史に学ぶリーダーシップ【第8回】北条早雲

本シリーズ「歴史に学ぶリーダーシップ(日本ver)」では、日本の歴史上に登場する数々のリーダーたちの生き様と組織運営術を振り返りながら、現代にも通じる知恵を探っています。

前回は「三好長慶」を取り上げ、戦国時代における先進的な都市経営と権威の活用を学びました。

今回は、同じく戦国初期に頭角を現し、関東の覇権への道筋をつけた北条早雲(ほうじょう そううん)に注目します。

のちに小田原を本拠とし“後北条氏”として関東一円を支配した北条家。
その始祖である早雲は、いかにして一介の浪人から大名へと上り詰めたのでしょうか。

北条早雲とは?――“下克上”の風を関東に吹かせた男

出自と前半生

伊勢宗瑞(いせ そうずい)の名で知られる

北条早雲(1432年~1519年)は、もともと伊勢宗瑞(いせ そうずい)という名で活動していたとされます。
駿河国(静岡県)を本拠とする今川氏の家臣、あるいは京都の公家や室町幕府奉公衆とのつながりがあったなど、彼の前半生には諸説あるものの、はっきりとした経歴は不明点が多いです。

“下克上”の象徴的人物

室町幕府の統制が弱まる中、守護大名や国人領主が力を伸ばした戦国初期。
早雲はまさに“下剋上”と呼ばれる動乱期において台頭し、関東へ進出する足掛かりを作りました。

相模進出への道

今川義忠・氏親との関係

早雲は駿河の今川氏親(いまがわ うじちか)を支え、その内紛をまとめあげるのに一役買ったと言われます。
その功績を認められ、駿東(駿河国東部)の領地や出兵の機会を得て、徐々に地盤を固めていきました。

堀越公方・伊豆掌握

1493年頃には、伊豆(静岡県東部)に拠点を置く堀越公方(足利政知の子孫)を滅ぼし、伊豆を手中に収めます。
これをもって早雲は“独立大名”としての第一歩を踏み出したのです。

関東支配の足がかり――小田原城の奪取

相模・小田原城攻略

難攻不落の名城を落とす

その後、相模国(神奈川県)西部に位置する小田原城を支配していた大森氏を攻略し、1500年代初期までに小田原城を奪取。ここを拠点にするとともに、関東進出への大きな足がかりとします。

交通・経済の要衝を押さえる

箱根や足柄峠を越える交通の要衝でもある小田原は、伊豆から関東各地へ兵を進めるうえで非常に重要な場所。ここを抑えることで、早雲は駿河(今川)との結びつきを保ちながら、関東情勢に対して強い影響力を発揮できるようになりました。

支配体制の特徴

分国法や領国経営

後北条氏として家督を継いだ子の氏綱(うじつな)、孫の氏康(うじやす)などによって整備される「早雲寺殿二十一箇条」などの分国法(ぶんこくほう)は有名ですが、その源流は早雲時代に遡るとされます。

戦乱の中でも秩序だった統治を行い、商人や農民の保護を進めた点が、彼ら後北条氏の強みとなっていきました。

信頼される“領主像”の確立

早雲の施政は家臣だけでなく、在地領主や農民層との関係改善を重視していたといわれます。
相次ぐ戦乱に疲弊した地域の人々にとって、法と秩序をもって統治する大名は安心感をもたらす存在だったのです。

北条早雲のリーダーシップの本質

柔軟かつ現実的な外交・同盟戦略

今川氏との縁戚・協力関係を維持しつつ、必要に応じて関東の他勢力とも連携・対立を切り替える“現実主義”を徹底。

ルーツや出自が明確でないからこそ、柔軟に同盟を組み替え、領土拡大のチャンスを的確に掴んだと見る向きもあります。

秩序と安定を重んじる内政手腕

後北条氏の分国法の源流を築き、治安と経済活動を活性化させようとした姿勢は、戦国乱世における先進的リーダー像と言えます。

地域の信頼を得るため、法による公正な裁定と民生の安定に力を注いだことは、戦国大名として際立った特徴です。

実力主義と調略(ちょうりゃく)能力

戦国時代の“下剋上”の風潮を背景に、一介の浪人から大名へと躍進した早雲は、家柄よりも実力・才覚を重んじた人物とされます。

調略(敵対勢力を内通させる・切り崩す工作)を巧みに行うなど、古い権威に固執せず必要とあらばあらゆる手段を用いる柔軟さがありました。

地形・交通の要衝を的確に押さえる

伊豆から相模への進出は、海路や峠越えなど軍事・物流において鍵となる拠点を次々と確保することで成功。

戦略的拠点を抑えながら“攻める場所”と“堅持する場所”をはっきりさせたリーダーシップは、現代企業の“拠点戦略”とも通じる部分があります。

晩年と後北条氏へのバトンタッチ

百年続く北条の基盤 ” づくり

早雲は最終的に相模国の支配を固め、晩年を迎えました。彼の死後、子の氏綱、さらに孫の氏康、曾孫の氏政・氏直へと血脈は続き、後北条氏は最盛期に関東全域を支配するまでに成長します。

豊臣秀吉との決戦へ

後北条氏が滅亡するのは1590年の小田原合戦。
早雲の時代から実に約100年にもわたり関東で栄えた北条家の礎は、この“下剋上の革新者”が築き上げたものと言えるでしょう。

現代に活かす北条早雲の教訓

新参者でも機会を活かせば組織を動かせる

早雲は確固たる名家の血筋ではなくとも、実力や人脈づくりによって大名にのし上がりました。

企業や社会でも“生え抜き”だけがリーダーになるわけではない時代。外部出身者の強みを活かして組織に新風を吹き込むことは、大きな可能性を秘めています。

安定した統治(内政)こそが周囲の支持を得る

戦国の世では武力だけでなく、“住民の生活を安定させるリーダー”が長期的な支持を得ます。

どれほど優れたビジョンがあっても、現場の安定なくしては組織がついてこない点は現代にも通じます。

柔軟な外交・同盟策の重要性

同じ戦国大名であっても、状況に応じて敵とも味方ともなりうる関係を巧みにコントロールした。

競合他社やステークホルダーとの利害が複雑に絡むビジネスシーンでも、長期的視野で“協力と競争”を切り替える判断力が必要です。

地政学的視点を欠かさない

地形や交通の要衝を押さえることが、領国拡大のカギとなりました。

現代のグローバル企業でも、物流・通信・人材ネットワークなど“拠点”をどう選定するかが成否を分ける大きなポイントになります。

まとめ

北条早雲は、戦国の混乱期において下剋上の典型例とも言える大躍進を遂げ、後北条氏百年の基盤を築いたリーダーです。

出自の謎や伝説的エピソードも多い一方、

柔軟な同盟戦略と外交手腕
秩序と安定を重んじる内政手腕
地形・交通の要衝を的確に押さえる戦略

を駆使し、伊豆・相模を足掛かりに関東へ版図を広げていきました。
戦乱の世を泳ぎきった“革新者”として、豊かな実例を残した点は、現代のリーダーにも示唆を与えてくれます。

生まれ」や「家柄」にとらわれず、機会を的確にとらえて一歩ずつ勢力を広げた早雲の姿は、まさに“チャンスは自らの手で切り拓く”ことの重要性を語っているかのよう。

次回以降も、日本史に名を刻んだリーダーの足跡を通じて、現代へ活かせるリーダーシップのエッセンスを探っていきましょう。