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2025.07.09

推し活×哲学|第2話:記憶とアイデンティティ──推しが“私”をつくるということ

「この思い出が、私をつくった」

ライブでのひと言、舞台でのラストシーン、一緒に泣いたあの夜、見上げた帰り道の空。

「たかがアイドル」「たかがエンタメ」と言う人がいるかもしれない。

でも私たちは知っている。

あの瞬間がなければ、今の私はいない。

推し活とは、単なるエンタメ消費ではなく、「自分という物語」意味のある場面を書き加える行為なのです。

記憶とは、出来事ではなく“意味づけ”である

心理学では、記憶は「事実の保存」ではなく「意味の編集」とされます。

同じ出来事でも、そこにどんな意味を見出すかで記憶の質が変わるのです。

泣いた理由を 「感動」 だと解釈するか、
「救われた」 と思うか。

推しの一言を 「励まし」 と受け取るか、
「人生の指針」 として刻まれるか。

記憶は常に再解釈され、今の自分の価値観によって再構成される。

そしてそれは、自己イメージそのものを静かに変えていきます。

自己物語としての推し活

哲学者ポール・リクールは、人間は自分自身を物語る存在だと説きました。

“私は昔、○○にハマっていた”

“あの時期の支えは××だった”

“あれがあったから、今の私がいる”

こうした自己語りの中で、推し活が人生の転機”や“生きる理由”として編み込まれていくことはよくあります。

それは「偶然好きになった存在」ではなく、自分という物語の登場人物に昇華していくということです。

人は“語りうる記憶”で、自分を形作る

記憶とは「残るもの」ではなく「残すもの」です。

人は、自分にとって意味があると感じた体験だけを語りうる記憶として保存します。

そして、それを誰かに語った瞬間、その記憶は個人の物語”から“社会的アイデンティティ”へと変化します。

あのときの私、ほんとダメだったんだけど、
推しの〇〇に救われたんだよね。

こう語るとき、その人はもう、救われた人という新しい自己像を獲得しているのです。

まとめ──推しとの記憶が、“未来の私”を描き直す

推し活とは、“今”のためだけの行為ではありません。
その一瞬が、「私とは何か?」という問いに、静かに答えを与えてくれます。

記憶とは、自己のパーツ。
推しとの記憶を大切にすることは、自分自身を大切にすることと同義です。

“推しを語る”とは、“自分を語る”こと。
そしてその語りが、未来のあなたをかたちづくるのです。

推し活とは、“今”のためだけの行為ではない

その一瞬が、「私とは何か?」という問いに、静かに答えを与えてくれる

記憶とは、自己のパーツ。

推しとの記憶を大切にすることは、自分自身を大切にすることと同義なのです。

推しを語る”とは、“自分を語る”こと。

そしてその語りが、未来のあなたをかたちづくる。