推し活×哲学|第2話:記憶とアイデンティティ──推しが“私”をつくるということ


目次
「この思い出が、私をつくった」


ライブでのひと言、舞台でのラストシーン、一緒に泣いたあの夜、見上げた帰り道の空。
「たかがアイドル」「たかがエンタメ」と言う人がいるかもしれない。
でも私たちは知っている。
あの瞬間がなければ、今の私はいない。
推し活とは、単なるエンタメ消費ではなく、「自分という物語」に“意味のある場面”を書き加える行為なのです。
記憶とは、出来事ではなく“意味づけ”である


心理学では、記憶は「事実の保存」ではなく「意味の編集」とされます。
同じ出来事でも、そこにどんな意味を見出すかで記憶の質が変わるのです。
泣いた理由を 「感動」 だと解釈するか、
「救われた」 と思うか。
推しの一言を 「励まし」 と受け取るか、
「人生の指針」 として刻まれるか。
記憶は常に“再解釈”され、今の自分の価値観によって再構成される。
そしてそれは、自己イメージそのものを静かに変えていきます。
自己物語としての推し活


哲学者ポール・リクールは、人間は「自分自身を物語る存在」だと説きました。
“私は昔、○○にハマっていた”
“あの時期の支えは××だった”
“あれがあったから、今の私がいる”
こうした自己語りの中で、推し活が“人生の転機”や“生きる理由”として編み込まれていくことはよくあります。
それは「偶然好きになった存在」ではなく、“自分という物語の登場人物”に昇華していくということです。
人は“語りうる記憶”で、自分を形作る


記憶とは「残るもの」ではなく「残すもの」です。
人は、自分にとって意味があると感じた体験だけを“語りうる記憶”として保存します。
そして、それを誰かに語った瞬間、その記憶は“個人の物語”から“社会的アイデンティティ”へと変化します。
あのときの私、ほんとダメだったんだけど、
推しの〇〇に救われたんだよね。
こう語るとき、その人はもう、“救われた人”という新しい自己像を獲得しているのです。
まとめ──推しとの記憶が、“未来の私”を描き直す


推し活とは、“今”のためだけの行為ではありません。
その一瞬が、「私とは何か?」という問いに、静かに答えを与えてくれます。
記憶とは、自己のパーツ。
推しとの記憶を大切にすることは、自分自身を大切にすることと同義です。
“推しを語る”とは、“自分を語る”こと。
そしてその語りが、未来のあなたをかたちづくるのです。
推し活とは、“今”のためだけの行為ではない
その一瞬が、「私とは何か?」という問いに、静かに答えを与えてくれる
記憶とは、自己のパーツ。
推しとの記憶を大切にすることは、自分自身を大切にすることと同義なのです。
“推しを語る”とは、“自分を語る”こと。
そしてその語りが、未来のあなたをかたちづくる。