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2025.07.30

推し活×哲学|第5話:存在としての推し活──“好きでいること”が自分を映すとき

「なぜこの人を推してしまうのか?」という問い

顔が好き
歌がうまい
演技に惹かれる

──理由はいくつもあるけれど、最終的に私たちはこう言います。

「なんでか分からないけど、好き」
「理由なんて、ない」

この説明不能な好意こそが、推し活の深淵。

そしてその奥には、「なぜ私はこの人を好きになる存在なのか?」という、自己の存在への問いが潜んでいます。

好きになるとは、“存在にYESを言う”ことである

哲学者マルティン・ブーバーはこう語りました。

「人は『我―それ』ではなく、『我―汝』という関係の中で世界とつながる」

これは、「対象」として誰かを見るのではなく、あなたとして存在を肯定し合う関係が本質だということ。

推しを好きになるとは、その人の存在に対して「YES」と言うこと。

つまりあなたはそこにいていい”と、誰かの存在そのものを祝福することなのです。

“推し”は関係性のなかに生まれる存在

重要なのは、「推し」は最初からそこに“いる”存在ではないということ。

私たちが見つけ、注目し、好きになることで、推し”という存在が立ち上がるのです。

これは言い換えれば、「推し」というのは私とその人との関係性のなかで立ち上がる人格だということ。

他の誰かにとってはただの芸能人でも、自分にとっては人生の支えとなるのは、出会い方が生んだ存在の意味構造が違うから。

推し活は“存在の引力”を自覚する行為

推し活とは、誰かの生き方・言葉・存在が、自分の内面と響き合い、引き寄せられる感覚を形にしていく行為です。

それは「この人が好き」ではなく、
「私はこの人を“好きになってしまうような存在”だったのだ」
という、自己理解のプロセスでもあります。

だから推し活は、ときに苦しく、ときに尊く、そして深く自分自身の存在と向き合う儀式となるのです。

まとめ──誰かを好きでいることは、自分の存在を問い直すこと

推しとは「存在を肯定する行為」であり、「自分という存在の再定義」でもある。

誰かを好きになるということは、自己の在り方を映し出す鏡。

推し活の深層には、「私は誰か?」「何に心を動かされる存在なのか?」という問いがある。

推し活とは、あなたが“自分にとっての真実”を探す旅。

それは自己肯定の始まりであり、人生の深度を測るコンパスでもあるのです。

このシリーズ「推し活×哲学」は、全5話で“推し活”という営みの奥深さをさまざまな角度から掘り下げてきました。
  • 儀式性:なぜ通うのか
  • 記憶とアイデンティティ:なぜ覚えているのか
  • 自己変容:なぜ変わってしまうのか
  • 共同体性:なぜ語り合いたくなるのか
  • 存在論:なぜ好きでいられるのか
推し活とは、ただの趣味にとどまらず、“人が生きる意味”に触れる行為なのかもしれません。
各回の詳細は、以下のボタンからまとめてご覧いただけます。