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2025.07.06

「人固有一死,或重於泰山,或軽於鴻毛」──名利ではなく“使命”に生の価値を見る哲学|真の野心家シリーズ第4弾

人は必ず一度は死を迎えます──この避けられない事実に、あなたはどんな意味を見出すでしょうか?

死の重さは皆同じではありません。ある人の死は“泰山”のように重く語り継がれ、別の誰かの死は“鴻毛”のように儚く消えていきます。

その違いを生むのは、地位や名誉ではなく、「何に命を懸け、何を遺したのか」という“使命”のあり方です。

本稿では、『史記』の名句を手がかりに、現代における使命と生の価値を静かに見つめていきます。

死の重さとは何か?泰山と鴻毛のたとえに込められた意味

人固有一死,或重於泰山,或軽於鴻毛(人は必ず一度は死ぬ。その死は泰山のように重いこともあれば、鴻毛のように軽いこともある)」──これは『史記』を著した司馬遷の有名な一節です。

人は皆、等しく死を迎えますが、その意味は同じではありません。何のために生き、何を成し遂げたかによって、死の重さが変わってきます。

この言葉は、名声や財産ではなく、使命をまっとうすることにこそ、生の価値があるという哲学を示しています。

司馬遷の時代背景と思想のルーツ

司馬遷がこの言葉を記したのは漢の時代のことです。彼は父・司馬談の遺志を受け継ぎ、『史記』の編纂に挑みましたが、李陵事件によって宮刑という壮絶な試練を経験します。

社会的には死と同義とも言える屈辱の中で、司馬遷は「自分の人生をこのまま終わらせてよいのか?」と自問しました。その答えとして、『史記』の完成という使命の遂行を選んだのです。

この思想の根底には、「名を残すこと(立命)」「天命を知ること(知天命)」という、儒家と道家の思想が融合していることがうかがえます。

何千年経っても変わらない人間の本質

現代においても、地位や報酬を得るための人生ではなく、使命を果たすための人生を選ぶ人がいます。

どれだけテクノロジーが進化しても、人間が「何のために生きるのか?」という問いを投げかけ続ける本質は変わりません。

使命に生きた者の行動は、たとえ一時的には理解されなくても、やがて“重みのある死”として後世に語り継がれていきます。

個の生き方はすぐには理解されないこともある

自らの信じた道を貫くことは、孤独な営みです。その行動や思想は、同時代の人々には奇異に映ることもあるでしょう。

しかし、その「違和感」「逸脱」こそが、新たな知や価値を生み出す原動力でもあります。

司馬遷は、父の遺志を継ぎ、辱めに耐えながら書き続け、『史記』という千年の書を遺しました。

この精神は、今もなお脈々と受け継がれています

使命に生きること。そこにこそ、人としての“重み”が宿っているのです。

真の野心家とは使命に生きる者

「野心家」という言葉には、しばしば出世欲や金銭欲といった否定的なイメージが付きまといます。しかし、本来の野心とは、自らの使命を定め、それに命を懸けることではないでしょうか。

真の野心家とは、他者の評価や時代の流行に流されず、自らの内に燃える問いと向き合い続ける者です。

司馬遷のように、理不尽や困難に屈せず、自らの志に従って歩みを進める姿は、現代に生きる私たちにとっても、最高のロールモデルと言えるでしょう。

「使命に殉ずる」──それは、人生に重みを与える最も高貴な選択なのです。

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